こんにちは
スタッフの岡田です
雨の合間に、和歌山城へ紫陽花を観に行ってきました。

ちょっぴり過ぎてしまいましたが、先日6/10は時の記念日でしたね。
671年6月10日に、天智天皇が水時計(漏刻)で時間を計って伝えたことに由来するそうです。
現在、我々日本人が使っているのは1日24時間、1年365日のグレゴリオ西暦を用いた定時法ですが、この天智天皇の漏刻はもちろん、明治〜大正頃までは季節(昼夜の長さ)によって1日の時間が変わる太陰太陽暦を用いた不定時法で時間を計っていました。
定時法への移行は開国後の1873年ですが、それ以前の江戸時代には既に、お殿様や豪商など、富裕層向けの豪華なインテリアとして徐々に西洋の機械式時計は輸入され始めています
時刻の計測方法が違うため、飾りと化してもおかしくなかった時計(「中国では皇帝が、西洋人が見ても驚くほどものすごい数の高価な機械式時計を輸入しているのに動かされていないようだ」といった内容の、宣教師や商人の手記が残っているそうです)ですが、日本人は、江戸時代初期には「和時計」と呼ばれる、不定時法専用の機械式時計を、西洋の機械式時計を参考にして早速作っていたようです。
というのも、やっぱりというかなるほどというか、時計がなかった時代から、日本人は結構時間にうるさかったらしく、農民レベルでも時間を記録していた資料が残っています。
(「隣の村と水田用の水路を使う時間を決めてあったのに、隣の村の人が時間を守らなかった」みたいな記録が18世紀頃の和歌山県史に残っているんですって
)
こちらは1712年に建てられた、和歌山城下町に時刻を知らせる時計櫓(途中で太鼓が置かれ、太鼓櫓という名前に変わったそうです。)、もう動いていませんが今でも見られます。
和歌山城観光のついでにはぜひ

「不定時法なのにどうやって定時法の時計が使えるの
?」というと、昼時間と夜時間で振動の方法を変えて不定時法の日が明けてから翌日また日が明けるまでを24時間の中に力技ではめ込んだ「二挺天符」などの方法が取られていました。
大名家には、天符切り替え係という仕事まであったそうですよ
さらに、印籠のような形の携帯用小型時計まで開発されており、こちらは天符の切り替えではなく、文字盤の数字を動かして使っていたというのですから、もう日本人の時計への並々ならぬ愛情は疑いようもありません

参考文献 『時計の社会史』角山栄
『時計の歴史』有澤隆